弁護士村松いづみのblogマチ弁の日々

香川の旅(その1)

 

2019年3月末、今年の初登山とお花見を兼ねて、香川県を旅した。

 

まず、香川県三豊市(みとよし)へ。

「三豊市ってどこ?何があるの?」と言う人も多いと思う。

私もつい最近まで知らない町だった。

毎週火曜午後8時から、BS朝日で、「三宅祐司のふるさと探訪」という番組が放映されている。

三宅祐司が、毎週1カ所の土地を訪れ、地元の人の「ふるさと自慢」の食べ物や景色を探して歩く。

三宅祐司と地元の人とのふれあいもほのぼのとしており、毎週楽しみに観ている。

三豊市は、この番組を観て知った。

 

三豊市に入り、まず訪れたのは、「元祖 たこ判」の店「小前(こまえ)」。

 

 

「たこ判」は、大判焼きの型で焼く、大きな(直径10センチ位)たこ焼き。

 

 

卵たこ判は1個150円。メチャクチャ安い。そして美味しい!

1個で十分お腹がふくれた。

何十個も買う人もいて、その時は、事前に予約した方がよいらしい。

 

次は、讃岐うどん。だが、番組で登場した店は休み。

やむなく通りがかりの店に入る。

「かけうどん」「釜揚げうどん」「ぶっかけうどん」など種類が一杯あって、うどん通ではない私にはどんなうどんなのか、さっぱりわからん。

店の人に教えてもらい、肉ぶっかけうどんを食べる。

 

お腹もふくれたので、紫雲出山(しうでやま、352m)へ。

山頂まで徒歩10分の所に駐車場があるので、紫雲出山へは車で行った。

 

 

山頂には、吉野山に劣らぬほどの桜のみどころがあるということで訪れたが、桜はまだ開花しておらず、1週間早かったかなあ・・・

 

山頂展望台から桜の木々と瀬戸内海の島々を望む

 

 

山頂には、弥生時代の高地性集落の遺跡館があった。

 

 

この日の最後は、最も楽しみにしていた「父母が浜(ちちぶがはま)」。

約1㎞にわたる海水浴場で、「日本の夕陽百選」にもなっている。

 

夕方、引き潮になると、砂浜にできた潮だまりが水鏡のように人物を映すということで、若者を中心に「インスタ映え」するスポットとして人気の地。

三宅祐司の番組では、確か、あいにくの雨あるいは曇りだったような記憶。

この日は、晴れてはいたが、夕日までにまだ時間があり、しかも風で水面が波打っており、待てど待てど、なかなか水鏡のようにならない。

 

若者たちが色々ポーズをとっていたので、撮らせてもらった。

 

 

水鏡の写真はあきらめ、私も裸足になって海の中に出来た砂浜まで歩いて行った。

素敵な場所だった。

元号について

 

(女性弁護士の法律コラム NO.246)

 

2019年5月1日に新天皇が即位することにともない、元号が変わります。

そして今日4月1日午前11時半過ぎ、新しい元号が「令和」であることが発表されました。

 

元号については、元号法という法律が1979(昭和54)年制定されましたが、この法律には条項が2つしかありません。

「1 元号は政令で定める。」

「2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」

 

改元に伴い、新聞等で元号についての歴史などを解説したものをいくつか目にしましたので、以下、簡単にまとめてみました。

 

元号制度は、もともとは中国を起源とするもので、皇帝が時をも支配するという思想にもとづくものだそうです。

しかし、現在では、中国でも使用されておらず、時の始まりとしての元号を使用するのは日本だけと言われています。

 

元号が制度として確立したのは、701年「大宝」から。日本書記では、最初の元号は「大化」(645年)とされていますが、出土した木簡に大化と書いたものはないそうです。

改元も、必ずしも天皇の代替わりでなくても、何かめでたい時にもなされることが多かったようです。

後醍醐天皇は、在位21年で8回、孝明天皇は在位21年で6回改元しています。

また4天皇にわたり約100年間改元がなかった時代もありました。

江戸時代は、幕府の許しがなければ改元できなかったし、元号を決定したのも幕府だったそうです。

 

一世一元は、1868(明治元)年から始まり、1889(明治42)年の旧皇室典範で法制化されました。

逆に言えば、これは、「天皇は在位中に元号を改めてはならない」として、天皇が随意に改元することが禁止されたという側面を持つようです。

戦後、新憲法のもとで、旧皇室典範は廃止され、元号は法的根拠を失いましたが、1979年に前記の元号法が制定されたという経緯です。

元号法では、前記のとおり「元号は、政令で定める」と規定されており、天皇の関与はなく、発令主体は内閣です。

法案審議の際には、元号の使用を国民に強制するものではないとの政府答弁がなされています。

 

あらためて元号を考えると、今では「時代の区切り」としての意味しかないように思えます。

それも、マスコミが「昭和の時代」「平成の時代」と区切って、それぞれの時代に発生した出来事から特徴づけようとしているだけで、昭和から平成にかわった1989年に区切るべき何かがあったわけではありません。

それは今回も同じで、2019年4月と5月とで、私たちの日常に特別の変化はありません。

ですから、今回のこれだけの騒ぎには、マスコミがあおっているような気がして違和感を感じます。

 

私は、可能な限り西暦を使うことにしています。

これまで裁判所は元号だけを使用しています。ですから裁判所に提出する書面には、やむなく西暦と元号を併記しています。

裁判所は、例えば、金銭の長期の分割払いで和解する場合、30年後までの分割払いであれば、和解調書に「平成61年まで」のように記載し、西暦は絶対に記載しません。

西暦への読み替えが煩雑で、非常にわかりにくい記載方法です。

外務省などは、これからは原則西暦と考えているようで、国際化の今日、裁判所も西暦に変更してほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ショーケンは、青春の1コマ

 

歌手で俳優の、ショーケンこと萩原健一が3月26日亡くなった。享年68歳。

 

グループサウンズ(GS)全盛時代、私は、ザ・テンプターズのボーカルだったショーケンの大ファンだった。

当時、私は中学生。

GSでは、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二が甘いマスクで圧倒的人気だったが、私は、人なつっこいがどこかクールさがあるショーケンの方が好きだった。

岐阜の田舎で暮らしていた純朴な(?)少女だったため、コンサートに行くとかファンクラブに入るとかなどは、およそ思いもつかなかったが、出演するテレビ番組を欠かさず観ることはもとより、レコードを買ったり、「平凡」や「明星」という当時の芸能月刊誌を毎月買って、写真のページを切り抜いて集めたりして夢中になった。

「お兄さんになって」とファンレターを書いたこともあった。

これほど芸能人に夢中になったことは、この中学生時代だけだった気がする。

 

でも、人気の頂点にいた当時の彼は、かわいい衣装を着せられ、気に入らない曲を歌わされるのが我慢できなかったらしい。

そしてグループサウンズの全盛が過ぎ、彼が再び俳優としてテレビなどに登場した頃は、私は大学生となり、テレビのない生活を送っていたので、ショーケンが出演していたというテレビドラマは全く観たことがない。

また、当然、私自身の彼に対する熱も冷めていたと思う。

 

昨年、NHKで放映された「不惑のスクラム」(高橋克典主演)は、なかなか胸を打つドラマだった。

彼は、ヤンチャーズという中高年のラグビー部の重要な役割を演じていた。

ガンで死んでいく役で、久しぶりに観たショーケンはずいぶん年をとったが、いい味を出していた。

 

ショーケンは、間違いなく私の青春の1コマを飾った歌手だった。

そして彼が出演したドラマや映画を観る機会があれば、私が見逃した彼を感じることができるのになあと思う。

 

 

 

「診療所の窓辺から」(小笠原望 著)を読んで

 

3月24日の日曜日に、高知県四万十市で地域医療に携わる小笠原望(おがさわら のぞみ)医師の姿を追った映画「四万十~いのちの仕舞い~」が上映された会場で、「診療所の窓辺から」という本を買った(発行:ナカニシヤ出版)。

 

以前から読みたいと思い、新聞の広告記事を切り抜いて持っていた、その本である。

 

 

会場では、本の裏に、小笠原医師直筆の川柳がまあるい字で書かれて販売されていた。もちろんサインも。

本によって、何種類かの異なる川柳が書かれてあったので、私は「四万十の風と握手して生きる」という川柳を選んだ。

 

 

この本は、朝日新聞購読者向けの月刊誌「スタイルアサヒ」に小笠原医師が連載されたものを抜粋、加筆修正して再構成されたものとのこと。

 

病気、高齢、介護、在宅医療、看取り・・・どれも重い事柄だが、「ひとのいのちも自然のなかのもの」という小笠原医師の暖かく柔らかい一言一言とそれに呼応する患者さんとのやりとりが、何とも言えず穏やかなのである。

まるで、四万十川の流れのよう・・・

 

今度は、小笠原医師の話を直接聞いてみたいと思った。

 

 

 

ブラリ、吉田山

 

週末は寒かったが、3月24日(日曜)はそこそこの天気だったので、おそらく大学生の時以来となる吉田山をブラブラ歩いてみた。

 

吉田山は、京都大学の東側に位置し、標高は105M。

登り口はいくつもあるが、今出川通りの登り口から登った。

 

 

 

大学1回生の時の1年間、吉田山のふもとの神楽岡町に住んでいたので、毎朝、この登山口の前を通って大学に通っていた。

 

山頂までの道は、舗装され整備されている。

でも途中から、舗装なしの山道の方へ入り、その道から山頂に出た。

山頂には、あずまやがあり、二人の老人が、なにやら政治談義をされていた。

山頂は、木々に覆われ、展望はなし。

 

 

吉田山山頂

 

 

山頂から南方面に下りていく。木々があって、見晴らしはあまり良くない。

 

 

 

更に進むと、子ども達用の園庭があった。

昔、この奥の建物は、学童保育として利用されていた。

司法試験に合格した後、大学卒業までの数ヶ月、学童保育のアルバイトをした懐かしい場所。

当時は、こんな滑り台やブランコはなかったような記憶だが、自信はない。

 

 

結局、吉田山の西側に下りた。

京大正門前に近い登り口。ここが吉田神社の参道だと思う。

 

 

1時間ほどのウォーキングでした。

 

 

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